何が起こったのか、暫くの間理解する事が出来なかった。
自分は今、目の前の男を密輸の犯人として捕える為に、その証言をする為にここに居る筈だ。
少なくとも数時間前、妃は自分にそう言ったのだ。
なのに、今自分の背を押し等々力の前に突き出している妃は、その口で何と言っただろうか…?

『この魔族 買ってくれない ?』

それは、家で彼が智に言ったモノと正反対の事。
助けを求めてきた智を、智の仲間を捕えている張本人である等々力に売り渡そうというのだ。

彼の言葉を何度も心で反芻してから、漸く妃を振り返る。
信じられないモノを見るような目で…

「何…を」
「それは、どういう意味ですかな…?我々が何故魔族を?」
事態が飲み込めていないのは、等々力も同じ事。
訝しげに問い返してくる等々力と、その隣に立つ榊の顔色を伺いながら、口許の笑みは消さないままで言葉を放つ。
「とぼけなくても良いだろ?仕事柄裏の情報は嫌って程入ってくるんだ。ここが裏では魔族を密売してるって知っても不思議はないんじゃねーの?」
 「…その情報が確かなものだという証拠はあるんですかな?」
しかし、等々力もやはり慌てた様子一つ見せはしなかった。
両手の指を組み顎を乗せる姿勢で、妃を見返す。
「こういう商売は名が売れる程、そういった噂が流れるものでしてね。貴方方とて、それら全てを信じているわけではありますまい?」
これが、密売の確証を得る為の芝居ではないという保証はない。むしろその可能性の方が高いのだ。
こんな手にのせられはしない…。
しかし、妃もそんな在り来たりなモノで相手を引っ掛けようなどと考えてはいなかった。
 その程度がトップに居る企業なら、この規模の会社に発展している筈もない。
「その魔族がうちに助けを求めてきたってのは証拠にゃならねーか?」
目の前に証人がいるだろうと智を突き付けてみせる。
(馬鹿共め…あれ程逃すなと言っておいたのに…)
「さすがは仕事屋…魔族の言葉も信じるに値する、と…」
「中立だからな?」
 心中では悪態をつきながらも、恐れ入ったと言うようにわざとらしく肩を竦めた等々力に、妃も皮肉気に返し言葉を続けた。
  「幸い今なら逃げ出したのはこいつ一匹だけだ。コイツさえ買ってくれりゃ密輸が政府にばれる事はない…」
「ちょっと待てよ!!」
 次々と発せられる妃の言葉に、とうとう智の両手は彼の襟首を掴んでいた。

話が違いすぎる ―

そのまま睨み上げて怒りのままに叫ぶ。
「何だよコレ!助けてくれるって…引き受けてやるって言っておいてっ…オレの事騙してたのかよ!!?」
言い表す事の出来ない胸の感覚が、巧く言葉を成さない。
ただ、訴えるような瞳で見詰める智に、妃は笑みを消して見返した。
その威圧感さえある冷たい瞳に、身を強張らせる。
余りにも強い、それは確かに『憎悪』に満ちた瞳…

「俺の両親は殺されたんだよ…お前等魔族の勝手な暴走に巻きこまれてな…」
静かに
ただ静かに告げられた言葉。
それに、一瞬 息が止まった…。
全ての答えが、今解けて行く。
自分に対しての妃の空気のわけも…
数日前、彼が自分の申し出を冷たくあしらおうとしたわけも
この殺気のわけさえも…

自分達魔族は、彼にとって仇という存在でしかなかったのだ。
( ―何だよ…じゃあ最初から… 最初から俺達に、逃げ場なんてなかったんじゃないか…)
“政府認定の仕事屋”
“WIZORD配下の…”
中立である筈の彼らに突き放された今、自分は完全に道を失って…
それでも心の何処か一部だけが妙に冷静で、心がまだ希望を全て消し去ってはいなかった…。
彼は…
自分に最初から優しく接してくれた彼は…?
「っ…助けてくれるって言ったんだっ…あの人っ」
「倭の事かよ?」
俯いて弱々しく発した智の言葉さえ冷たく笑いとばす。
「あいつ一人で何が出来るって?お前さえ売っちまえば決定的な証拠なんざ何一つなくなるんだ。アイツだって俺の事は知ってる…こうするだろうって予想もしてたろうさ」
「っ…」
それは、確かな絶望かもしれない。
最後の望みとしていた彼は、確かに妃のパートナーなのだ。
最初からこの事態を予想して、中立である建て前としてあんな優しい事を言ったのだとしたら…?
(…これが…結末…?)
呆然とする智と、不敵に笑う妃を、等々力は暫く黙って見て居た。